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ー第1章ー 4.Cyrano de Bergerac

Autor: 土浦タカ
last update Data de publicação: 2026-08-19 20:32:46

季節はいつの間にか冬になる。この時期は滑雪スキイ氷戯スケエトが授業で選択できた。冬は寒くて大嫌いな季節だったが滑雪スキイ氷戯スケエトは昔から好きなため、少しだけ楽しみな時期になった。(なお、ルルは冬はベッドから出てこなくなってしまう。ルルは大抵の猫と同じく寒さが苦手だった)

 サン=ポウル学院は冬になると中等部、高等部の三年が劇をるという伝統だ。イレヱヌ達中等部は“ハムレット”と“シラノ・ド・ベルジュラック”を演ることになった。そして“シラノ・ド・ベルジュラック”の配役はあろうことかロクサアヌはイレヱヌ、クリスチャンはセシル、シラノはシリルだった。何とも悪趣味な人選だ。間違いなく不特定の人間が悪意を持って投票したに違いない。あの訳の分からない噂が校内に広まったらしいということは知っている。恐らくここ暫くの騒動への当て付けとしてこの配役になったのだろう、とイレヱヌは察した。人前で自ら道化となるなど御免なため配役を降りたかったが、大道具も楽器も自分は立候補出来るほど上手くはない。せめて家政婦や修道女役では駄目なのかと訊いたところ、ロクサアヌより家政婦や修道女が美人では物語が成り立たなくなってしまう、と家政婦役のアンヌと修道女役のジュリエットの至極もっともな意見により却下されてしまった。イレヱヌは生まれて初めて自分の美貌を心から呪った。セシルは顔だけの頭が悪い男役なんて…とブツブツ言っていたものの、クリスチャンの衣装を見るや否や「僕まるでルイ十五世みたいじゃない?」と上機嫌で身につけた。確かに“最愛王”と言われた美貌で知られるルイ十五世の若い頃の肖像画に似ている。シリルは眉間に皺を寄せ、何時もにも増して不機嫌そうだった。恐らく自分が見せ物になること(おまけに醜い容姿役)になることが耐えられないに違いない、とイレヱヌは思った。

 そして放課後稽古が始まった。

『貴方は震えている。そう、貴女は震えている。風にそよぐ木の葉のように。そう、震えているのだ。君の意思では無いかもしれぬが、私は感じる、懐かしい君の手の戦きが茉莉花ジャスミンの枝を伝って此処まで降りて来てくれる』

『そうですわ。私は震えております。私は震え、涙に濡れて恋するあなたのものになるのですから。恋に酔わされて』

 先ずは台詞の読み合わせから始まった。台詞を憶えて諳じるだけでも簡単では無いが、其処に演技まで追加される。素人芝居なのでそこまで要求はされないだろう。改めて母ジャンヌの偉大さを実感した。

「もーイレヱヌ。もっと感情を込めることが出来ないの?」端から見ていたセシルから苦情クレイムが出てしまった。「今はまだ読みあわせだしお芝居まではしなくて良いと思う」

「其れじゃ周りの気持ちが乗らないよ。もう少し浪漫チックに出来ないの?」

「あたしは女優じゃないもん」確かにイレヱヌはセシルのように情感たっぷりに演じてはいない。しかしまだ読み合わせの段階だし此れで良いはずだ。「どっちでも良いだろ。こんなの只の出し物だ」シリルが吐き捨てる様に云った。苦虫を噛み潰したような顔をして台本から目を離した。「ちょっともっと真面目にやってよシリル。台詞くらい憶えてもらえないと僕たち皆困るんだよ」セシルが不満を伝えると「シラノ・ド・ベルジュラックなら原作を読んだことくらいは有る。舞台も観に行った事がある。台詞くらいは憶えている」全くやる気の感じられない返答が返ってきた。イレヱヌもシラノ・ド・ベルジュラックは舞台も映画も観て、その後に小説を読んだ。幸運にもジャンヌがロクサアヌ役を射止めたため、観る機会に恵まれたのだ。舞台では母のロクサアヌの美しさに只目を奪われてしまったが、小説では台詞の美しさにうっとりとさせられた。こんな美しい愛の言葉を囁けるのならロクサアヌはシラノに振り向く可能性は十分に有ったはずなのに、何て切ないのだろう。と涙が滲んだ。ただ、観るのと自分が演じるのでは大違いだ。イレヱヌも正直やる気は無い。

「もー皆やる気無いなあ。此れなら僕がロクサアヌ役をやりたかったよ」

「確かにセシルなら似合いそう」

「やっぱりそう思うでしょ?イレヱヌクリスチャンをやってよ!」

『愛しています…君をとても…愛しています…』「其処じゃないよ!露台バルコニイのシーンにして!」二人でふざけ合いながら笑っていたところで

「もう良いだろ。俺は帰る。下らねえ。ふざけやがって」シリルは荒々しく足早に出ていった。

「あーあ、すっかり拗ねちゃったよ」セシルがからかいを含んだ呆れ声を出した。イレヱヌはこの間の会話からシリルの事を少し心配していたため、稽古が終わった後に図書館に行った。何時も其処で勉強しているのを知っていたからだ。

 図書館の重い扉を開く。イレヱヌの好きな古書とインクの入り交じった香りがした。

案の定、シリルは直ぐに見つかった。

 「シリル、途中で抜けるのは良くない」

「ほっとけ。台詞位は憶えてるって云っただろう」

「其れじゃ練習にはならないよ。あたしもやる気がある訳じゃ無いけどせめて練習くらいはしようよ」

「うるせえ。お前は彼奴の為に練習がしたいんだろう」刺々しい声が返ってきた。此れ程攻撃的なシリルを見るのは久しぶりだ。

「お前はどうせ彼奴が好きなんだろう?あんなオカマ野郎の事が」シリルがイレヱヌの方を凝視する。頬は今にも枝から落ちそうなほど熟れた林檎のように紅潮していた。

「何時だってやる気なんか無いだろう。お前は何時だって無気力だ」

「やる気無い癖に矢鱈と視界に入ってくる。どうでも良い奴なんかとデエトなんか出来る最低な女の癖に。おまけにあんな変態オカマ野郎とつるむなんてどうかしてる」「何でお前なんかが夢にまで出てこられないといけないんだ」「畜生……」「糞が。シラノなんからなきゃならないのかよ。別の男の恋愛の手助けをする間抜け野郎の役だと……馬鹿にしやがって……」「最悪だ……」支離滅裂な事を口にするシリルは弱々しい姿だった。目の表面は水の膜が張り、耀が小波のように揺れていた。シリルは図書館から出ていった。イレヱヌは呆然として立ち尽くした。

 劇が開幕した。大抵の生徒は棒読みの演技とも言えない代物だったが、クリスチャン役のセシルの絶世の美男子ぶりには皆が息を飲んだ。正に十七世紀の美しい貴公子其の物だった。イレヱヌは衣装合わせの際に極端に高く結い上げた巨大な鬘とコルセット、パニエのせいでまともに動く事ができなかったため、演技よりも衣装を着て動く練習に時間を費やされた。衣装係の生徒達の手を借りてようやっと身支度が終わる頃にはイレヱヌはぐったりと消耗していた。此れが日常として行われていな時代が有ったとはぞっとする。しかし、練習の甲斐があり、イレヱヌの見事な貴婦人ぶりと優雅な身のこなしは聴衆を引き付けるには十分だった。シリルは想像通りの棒読みの棒立ちだったが、確かに台詞は総て憶えていた。イレヱヌは特に問題トラブルが起こらず終われたら其れで良いと思っていたため、此れで十分だと思った。そして芝居は“シラノ・ド・ベルジュラック”の有名な露台バルコニイのシーンになった。イレヱヌは此のシーンは少し不安だった。大道具係が作った露台バルコニイは思ったより高かったので、クリスチャン役のセシルの方に視線をやると少し怖かったのだ。

『でも其の時が二人に訪れましたならどんな言葉を仰いますの?』セシルの方を向きながらイレヱヌは精一杯恍惚うっとりした表情と声色を作る。此の後はシリル演じるシラノがクリスチャンの振りをしてロクサアヌに愛を語る。もっとも、シリルはシラノのごとく情熱的に愛を語る筈がない、とイレヱヌが思っていると

『言葉、言葉、言葉はすべて胸に浮かび次第貴方に投げ掛ける。群がる言葉の数々を纏めもせずにそのままに!』

 何時もの棒読みとはまるで違った。

『愛している!息が詰まる。恋い焦がれているのです、我を忘れてどうにもならない!』

 夜、露台バルコニイで愛を語るシーンのため照明が暗くなっているが、シリルの顔はイレヱヌに見えた。

『貴方の名は私の心の中で絶えず震えているのだから。私はロクサアヌよ、絶えず震えているのだから。絶えず震えて揺れてロクサアヌの名を響かせる!君の事は何でも憶えている、総てを私は愛してきた。今私を襲う執着の想い、其れこそまさしく恋なのだ、嘆かわしい恋の狂乱のすべて!』

 此方を真っ直ぐに見つめていた。シリルの眼の奥で焔が燃え上がるのを、はっきりと見た。イレヱヌは耳まで赤く染まるのを感じた。

 舞台は無事終わった。シリルの予想外の熱演とセシルの美丈夫ぶり、イレヱヌの美貌で予想外に見られたものとなった。しかしイレヱヌはそんなことどうだって良かった。予想外に消耗してしまい、早く寝台ベッドで寝たくて仕方が無かった。「随分疲れてるな」後ろから声がかけられる。シリルが立っていた。衣装はまだ脱いでいないがかつらとつけ鼻は取っていた。

「慣れないことしたからね」イレヱヌは直ぐに立ち去りたかった。何故かシリルの顔を真っ直ぐに見られなかったからだ。その場を離れようとしたら手を捕まれる。驚いてシリルの顔を見ると

「俺、お前の事諦めるの辞めるから」真剣な眼差しの榛色ヘエゼルの双眸に驚いた自分の顔が映っているのが見えた。

――第1章 完――

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    季節はいつの間にか冬になる。この時期は滑雪、氷戯が授業で選択できた。冬は寒くて大嫌いな季節だったが滑雪、氷戯は昔から好きなため、少しだけ楽しみな時期になった。(なお、ルルは冬はベッドから出てこなくなってしまう。ルルは大抵の猫と同じく寒さが苦手だった) サン=ポウル学院は冬になると中等部、高等部の三年が劇を演るという伝統だ。イレヱヌ達中等部は“ハムレット”と“シラノ・ド・ベルジュラック”を演ることになった。そして“シラノ・ド・ベルジュラック”の配役はあろうことかロクサアヌはイレヱヌ、クリスチャンはセシル、シラノはシリルだった。何とも悪趣味な人選だ。間違いなく不特定の人間が悪意を持って投票したに違いない。あの訳の分からない噂が校内に広まったらしいということは知っている。恐らくここ暫くの騒動への当て付けとしてこの配役になったのだろう、とイレヱヌは察した。人前で自ら道化となるなど御免なため配役を降りたかったが、大道具も楽器も自分は立候補出来るほど上手くはない。せめて家政婦や修道女役では駄目なのかと訊いたところ、ロクサアヌより家政婦や修道女が美人では物語が成り立たなくなってしまう、と家政婦役のアンヌと修道女役のジュリエットの至極もっともな意見により却下されてしまった。イレヱヌは生まれて初めて自分の美貌を心から呪った。セシルは顔だけの頭が悪い男役なんて…とブツブツ言っていたものの、クリスチャンの衣装を見るや否や「僕まるでルイ十五世みたいじゃない?」と上機嫌で身につけた。確かに“最愛王”と言われた美貌で知られるルイ十五世の若い頃の肖像画に似ている。シリルは眉間に皺を寄せ、何時もにも増して不機嫌そうだった。恐らく自分が見せ物になること(おまけに醜い容姿役)になることが耐えられないに違いない、とイレヱヌは思った。 そして放課後稽古が始まった。『貴方は震えている。そう、貴女は震えている。風にそよぐ木の葉のように。そう、震えているのだ。君の意思では無いかもしれぬが、私は感じる、懐かしい君の手の戦きが茉莉花の枝を伝って此処まで降りて来てくれる』『そうですわ。私は震えております。私は震え、涙に濡れて恋するあなたのものになるのですから。恋に酔わされて』 先ずは台詞の読み合わせから始まった。台詞を憶えて諳じる

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー第1章ー 3.萌芽

     イレヱヌは結局、恋愛も夢も、自分に出来ることさえも曖昧なまま歳を重ねていった。勉強だけは頑張り、先生に褒められる事も多くなる。手紙や電話でジャンヌ、エドワアドにも褒められた。其れは勿論嬉しい事なのだが其れだけだ。自分は勉強が出来るようになれば満足出来るわけではない。 いい加減先の見えない未來や終わりの無い勉強にも疲れはててデエトに誘われるまま気紛れに何度か行った。しかしやはり想像通りというべきか詰まらない、アンニュイな気分にさせるものだった。例え流行りの映画を観ても、ディナーをしても(此れなら独りで勉強をして過ごす方が良い)毎回結論はここに行き着く。そして相手に予習、復習を理由にデエトを早めに切り上げたいとやんわりと伝えると「イレヱヌは真面目だね」と笑われる。何故かその言葉は堪らなくイレヱヌの神経を障った。 イレヱヌをデエトに誘う相手は自分を実際より大きく見せようと見え透いた張りぼての虚勢を張りたがる脆弱なプライドの持ち主ばかりだった。大した実力も実績も無い人間には有りがちな事だ。しかしイレヱヌからすれば継ぎ接ぎだらけの虚栄の人間との会話は自慢話ばかりで空っぽな退屈極まりないものだった。 此れならセシルと小説や映画の事などで会話に花を咲かせる時間の方がよっぽど楽しい。そして相手は自分の事を好きな訳ではない。単にイレヱヌの姿だけ見て自分にとって都合の良い偶像を相手に妄想をしていただけに過ぎない。少しでも気持ちを楽しいものにしたいと“昼下がりの情事”のオードリィ・ヘップバアンを真似てジバンシィのバックに二つリボンの付いた白のノースリイブドレスに白のショートグロオブを着けたのだが、結局「何でこの人とのデエトだけのためにこんな格好したんだろう」と堪らなく後悔した。 (セシルに会いたい)その思いで頭が一杯になる。二人でお洒落をしてカフェに行き“キャンディ”や“醜い亜米利加人”について話したくて堪らなくなった。其の日のノオトにはデエトの服装、映画の内容を書いた。次いでに「あと一時間で世界が滅ぶとしたらもう一度同じ様に過ごす。永遠みたいに感じるから」と書くことも忘れなかった。女子寮の談話室で瑞西人のアンヌ・ベッソンと英吉利人のジュリエット・サンダースにその話をしたところ二人に大笑いされてしまった。 自分は特に夢というものを持つことも無く、シリルが言ったように特に好き

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     其の一件はどうやら目撃者が何人かいたらしい。同級生のアンヌ・ベッソン、ジュリエット・サンダースの様にセシルの味方をするものもいればヘンリイ、エドガアの様にシリルに同情するものもいたが、セシルは相変わらずの様子で朝は遅いため余りビュッフェでは見掛けない。同じ授業を受ける時にも居る時と居ない時があった。恐らく部屋で飲酒、喫煙をしているかボオイフレンド又はガアルフレンドと遊んでいるかだろう、とイレヱヌは推察した。イレヱヌは此の学校に来てから何度かデェトの誘いをされたことは有るものの、一度も受けた事は無い。全く知らない、興味も持てない相手と遊びに出掛けることなど楽しくない事くらい想像がついた。「ええっイレヱヌはまだボオイフレンドが出来たことないんだ?」ミルクシェイクを飲みながらセシルは目を丸くした。敷地内に併設された映画館で“昼下りの情事”を観た後にカフェで映画の感想やオウドリィ・ヘップバアンの美しさについて語った後に、恋愛観にも話が及んだ時そう答えたら驚かれた。「変?」とイレヱヌがクレエプシュゼットを小刀で切りながら首を傾げる。皿からはカラメルソオスと甜橙の薫りが立ち上る。「変では無いけど……でもデエトしたり恋愛するのって楽しいよ?ちょっと勿体無い気がする」とセシルは答えた。「イレヱヌは物凄く美人だし、勿体無いなとは思う。サン=ポウルの中では一番美人だよ」と言い、「尤も、僕は同率で1位だけど」と付け加えることも忘れなかった。イレヱヌはくすくす笑った。セシルのわざと道化を気取った自己陶酔な所はセシルのチャームポイントだとイレヱヌは気に入っていた。一頻り笑った後、「そう?一人で本を読んだり映画を観たりすることの方が楽しそうだけど」とイレヱヌが疑問を溢すと 「そんなこと無いよ。自分の事を可愛い、綺麗って言って甘やかして愛してくれる人が居るって素敵じゃない?」そう言うと恍惚とした表情で笑いかけてきた。なるほど、とイレヱヌは理解った。セシルは自分の事を持て囃してくれる相手が欲しいのだ。恋人という自分を受け入れてくれる存在からの愛を受け取ることにセシルは悦びを感じているのだろう。 (セシルは寂しいのかな)イレヱヌはセシルの父アンソニー・マグワイアの名前を何処で聞いたのか思い出した。不倫の|不祥事《スキャンダ

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     サン=ポウル学院は瑞西のローザンヌの近くに存在する学院だった。建物は左右対称で赤レンガに白い装飾のあるエドワーディアン様式の外観で敷地は一つの町ほどもある。敷地内には孔球場や庭球試合場、しまいには映画館まで存在することには驚いた。 サン=ポウルの日常は基本的に規則正しい生活其の物だった。朝七時に生徒達は一斉に起床し、ビュッフェ形式の朝食を摂る。授業は一般教科の国語や数学の他、芸術、運動教科にも力を入れている。イレヱヌは運動教科では乗馬が好きだった。元々動物は大好きだったし、賢くて穏やかな馬はとても魅力的な生き物だった。サン=ポウルは自然豊かな環境に建てられているため、馬に乗って瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良かった。草と土の匂いを感じるとプラザホテルに住んでいた頃、時々セントラルパークでジャンヌとピクニックをした事を思い出した。亜米利加に居る間にパパに馬をおねだりしてみるべきだった、とイレヱヌは少し後悔をする。因みに乗馬は好きだが馬球は苦手だった。マレットは想像よりも重くて直ぐに腕が疲れてしまうし、馬を間違えて叩いてしまいそうで怖かった。  一番好きな授業は芸術だった。オウケストラ、デッサン、彫刻、絵画。そして此処では大好きなバレエや演劇も授業で習えた。イレヱヌは授業以外の休日でも許可さえ貰えたら踊りの練習をし続けた。黒鳥のバリエイションの練習に熱中していたのに、何故か亜米利加の小学校で投げつけられた嗤い声が頭の中に響き渡る。此方を嘲笑う真っ黒な眼。まるで檻に入れられた動物を視るような眼だ。 (あんた達なんか)鏡には王子を誘惑しようとする妖艶な黒鳥ではなく、眼差しだけで射殺そうとする悪魔の娘が映っていた。 (あたしは、あんた達なんかの手には届かないところまで行ってやる)黒鳥の三十二回のフーチエを回りながら何度も何度も心の中で言い続けた。自分は二度とあんな奴等に敗けない。頭の中で泥で汚れ、ぼろぼろにされた雑誌が思い浮かぶ。(あんな惨めな思いは二度としない。あんな奴等入り込めない居場所を自分で作るんだ)  午前中は六つの一般科目を学び、休憩中にホットショコラを飲んだ後午後からは運動若しくは芸術科目を学ぶ。授業の後は個々で勉強をし、21~23時には就寝する。此れが毎

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    「イレヱヌ様、朝ですよ」 最大の苦痛が今日も容赦無く襲いかかる。使用人のスーザンが今日もイレヱヌを起こしにやって来た。扉のノックをした後スーザンは無遠慮な足取りでのっしのっしと象の如く足音を立てながら部屋に入ってくる。イレヱヌにとっての苦痛の一つだ。イレヱヌを苛立たせて怒らせる為に態とやっている、イレヱヌはそう感じ取った。「さあさあ、早く仕度をしてくださいまし。朝は忙しいのですからね」 そういって寝台卓子の上に水の入った手洗、柘榴と檸檬、蜂蜜の入った薔薇水、猪毛で出来たブラシ等を並べていく。 鈍鈍とした動きで顔を水で濡らし、橄欖油の使われたマルセイユ石鹸で顔を洗うと、ジャガアド織りのタオルで顔を拭きサンタ・マリア・ノヴェッラの薔薇水とアルガン油で保湿をする。その次に、スーザンはブラシでイレヱヌの髪を解かしていった。総てが終わるとイレヱヌは血の気の無い大理石の様な顔に赤みがほんのりと差して薔薇色の頬になり、うねりのある髪は艶のある金糸になった。憂鬱な気分は朝食を食べる気力さえ奪っていく。鈍鈍と椅子に座ると肉匙で白トリュフのスクランブルエッグを掬った。牛酪の濃厚な薫りが鼻を擽る。其のまま唇に運ばず持て余す。 (食べたくない) 堪らない憂鬱がイレヱヌを襲った。ぐにゃり、と身体を柳の枝の如くしならせる。イレヱヌは学校という牢獄に行かなければならない。「イレヱヌ様、早く朝食を済ませてくださいまし。急がなければ遅刻をしてしまいますよ。」 スーザンのキンキンとした声がイレヱヌの鼓膜を刺してくる。食堂にはイレヱヌのみのため、当然ながら他の声は聞こえない。ジャンヌの「I」と柔らかく触れてくる甘い声は聞こえてこなかった。鈍鈍と喉の奥まで流し込むが好物のスクランブルエッグがまるで泥の様に感じた。食事は結局金糸雀が啄む程度口にして終わらせた。イレヱヌはジャンヌがエドワアドと結婚して新居に引っ越してからはずっと憂鬱を味わった。 何しろイレヱヌは亜米利加に住んでいながら亜米利加という国を蔑んでおり、メンタリティは完全に仏蘭西人其の物だった。亜米利加は欧羅巴人からす

  • Iの藍色或は愛に纏わる譚   ー序章ー 1.硝子の城

    イレヱヌは金髪を靡かせながら馬に乗って駈歩させる。左右の拍子が非対称の三拍子で走る動きをしているため、軽く息が切れてきた。髪に太陽の陽が当たると、まるで稲穂の様な輝きを放つ。瑞西の瑞々しい自然を眺めながら野原を駆けて風を切るのは堪らなく気持ちが良い。そうしていると悩みが総て風に乗って心の外へと流れ出ていくのを感じる。しかし、勿論此の瞬間は永遠には続かないことを知っている。何れだけ気に入ろうと此処は自分にとって終の棲家に出来る場所ではない。 ブロードウェイ・シアターで今日も母は豊かな金髪を耀かせながら舞台に立っている。「オクラホマ!」のヒロインローリーを演じている姿をイレヱヌは凝と見つめていた。 (ママンは今日も一番きれい) 誰よりも美しい母ジャンヌはイレヱヌにとっては何よりの自慢だった。  女優である母ジャンヌ・スチュワアト(公には旧姓ジャンヌ・ゴーテンと名乗り続けた)とイレヱヌは、プラザホテルのヴェルサイユ宮殿をモティーフにした部屋で無造作に置かれたドレス、宝石、毛皮、そして噎せ返りそうなほどの芳香を放つ花々に囲まれながら生活をしていた。 イレヱヌが祖国である仏蘭西の土を踏んだのは戦後漸く経ってからだ。ジャンヌという女は自分の不利益になることへの嗅覚は優れていた。仏蘭西が第二次世界大戦に参戦することが決定されるや否や状国の未來は当分は見通しが暗いと見なし何の未練もなく祖国を後にしてしまった。プラザホテルで生活をする理由は身の回りの世話は昔から使用人や恋人に任せきりだったため、生活能力が無いことという自覚をしているからだ。私生活を守りたいという至極尤もな理由などその一つに過ぎない。イレヱヌが産まれる前も、産まれた後にも誰にも教えることなく一人で育てると決めたのもそのような明らかに必要なものが欠けているからこその決断だったのだろう。 「I」と微笑いかけられて抱き締められると何時もオォ・デュ・コロンと母の皮膚の匂いが交じった甘い馨りに恍惚した。 ジャンヌはイレヱヌを時々Iと呼んだ。 イレヱヌの碧眼は耀の加減によって紫色にも藍色にも見えること。極東では藍色は“ai”と呼ばれること。そして の

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